鈴木みのる 「世界一性格の悪い男」の世界一の執念 前編

つい先日、新日本プロレスの真夏の祭典「G1 CLIMAX」の出場者が発表された。オカダ・カズチカ、棚橋弘至、ケニー・オメガ、内藤哲也といった新日のトップ・レスラーに交じって、ひとりの男が名を連ねていた。

鈴木みのる。新日においてヒールユニット「鈴木軍」を率いる悪役レスラー。身長は178cmと小柄ながら、セビリアンブルーのマットで強烈な存在感を放っている。憎たらしい表情で対戦相手を口汚くののしり、時にはセコンドを介入させてまで勝ちにくる「世界一性格の悪い男」。棚橋のような陽性のオーラを持つレスラーとは対極にあるレスラーだといえる。

しかし、みのるの過去を遡っていくと、彼の意外な姿が見えてくる。まだプロレスと総合格闘技の境界線があいまいだった時代、彼はまさにパイオニアだった。日本の総合格闘技の礎を築いたそうそうたるメンバーの中に、間違いなく「鈴木みのる」名は刻まれている。そんな彼がなぜ、現在のような姿へと変貌したのか。そこには、たとえ姿を変えたとしても、どんなに醜態をさらしたとしても「リングで生きる」ことを選んだ男の苦しくも美しい人生があった‥。

 

鈴木みのる(本名:鈴木実)は神奈川県横浜市に生を受けた。みのるが子どもだった頃、いちばん人気があったレスラーは初代タイガーマスクだった。佐山サトルの四次元殺法に、少年だったみのるは大きな衝撃を受けた。『こんなことの出来る人間がいるんだ!』のちに「世界一性格の悪い男」と呼ばれるみのるも、昔は純粋な子どもだった。

初代タイガーの影響がどれだけあったかは分からないが、みのるはスポーツ強豪校である横浜高校に進学し、アマチュアレスリング部で頭角をあらわす。そして、国体2位という実績を手土産に新日本プロレスに入団する。

 

レスリングのたしかな実力を持つみのるには、大きな期待がかけられていた。デビューした翌年の1989年にアントニオ猪木とのシングルが組まれたことは、その期待の高さを物語っている。しかし、猪木との一戦が行われたその年に、みのるは新日を退団してしまう。行き先は決まっていた。いちど新日にリターンしてきていた前田日明や高田延彦らが紆余曲折を経て再び新日を離脱して結成したいわゆる「新生UWF」だった。以前から誘いは受けていたが、心酔していた先輩レスラー藤原喜明が親日に在籍していたため、その誘いを断っていた。しかし、その藤原もUWFに移籍することになった。新日に残る理由はひとつも見当たらなかった。

 

新日という大きな傘の下から飛び出したみのるだったが、いきなり厳しい現実を突きつけられる。新日に比べてUWFは資金面で余裕がなく、若手はボロボロのアパートで集団生活をすることになった。すでにUWFに入団していた安生洋二からは「なんで新日辞めてUWFに来たの?」と言われてしまった。

しかし、不安だったのは生活よりも「強くなれるかどうか」だった。UWFの道場には前田が時々やってきて若手に稽古をつけていた。しかし、日本人離れした体格とパワーを持つ前田の指導は、みのるにとっては強くなれるとは思えない代物だった。「名選手は名監督にあらず」ではないけれど、当時の前田は指導者としてまだまだ未熟だった。一方、高田の指導は鈴木にとって満足のいくものだった、高田が道場にやってくると、自ら練習相手を買って出た。高田を相手に極めたことは一度もなかった。高田は強く、驚くほど練習熱心だった。

そんな生活を送っていくうちに、みのるのなかにどんどんフラストレーションが溜まっていく。UWFには前田、高田、山崎一夫からなる「上3人」がいた。みのる達が入団する前から在籍していた安生ら「下3人」は彼らに逆らうことが許されなかった。上下関係の厳しさは新日以上だった。革新的に見えたUWFの内面は、旧来のプロレス団体となにも変わっていなかった。しかし、みのるのような中途入団組はそれに反発したのだった。のちに盟友となる船木誠勝のともに、みのるは「上3人」に対して反旗をひるがえしていく。思えば、プロレスへのリターン後に顕著になったみのるの反体制的なスタンスは、この頃から培われていたのかも知れない。

89年11月、みのるはその若さからすれば不釣り合いなほどの大舞台を経験する。東京ドームで行われたモーリス・スミスとの異種格闘技戦だった。スミスは、キックボクシングの世界で圧倒的な強さを誇っていた。のちにK-1のスーパースターとなるピーター・アーツに敗北するまで、8年もの間スミスは負けを知らなかった。そんなスミスを相手にしたとき、みのるはまだ21歳だった。みのる青年は、スミスの強烈な右ストレートの前に沈んだ。のちに「スミスの強さの前にビビって自らマットに寝転がった」と語っている。みのるはこの対戦で悟った。まだまだ強いやつらがいる。俺はもっと強くならなきゃいけない。21歳の若者が抱いた、あまりにも悲壮な決意だった。

 

UWFは前田とフロント陣の確執をきっかけに、あっけなく崩壊してしまう。みのると船木は、師匠である藤原と行動を共にすることになる。「プロフェッショナルレスリング藤原組」が生まれたのだった。

敬愛する師匠である藤原喜明の名を冠したこの団体で、みのるは第2の師匠と出会うことになる。「プロレスの神様」カール・ゴッチだった。ヨーロッパやアメリカでみのるが生まれるはるか以前から活躍していたゴッチは、さらにそれ以前にはレスリングでオリンピックに出場したこともあるほどの実力者だった。そんなゴッチから直接指導を受けることもあったみのるは、どんどんゴッチに傾倒してくようになる。現在のみのるのフィニッシュホールドである「ゴッチ式パイルドライバー」の名前の由来は、この第2の師匠からとったものである(技自体を考案したのはみのる自身)。

藤原組は小さな団体だったが、当時のプロレスや格闘技の人気は現在と比べものにならないぐらい高かった。92年に藤原組は東京ドーム大会を開催する。しかし、そんな藤原組だったが、翌93年にはみのるや船木などほとんどの選手が退団してしまう。藤原と確執があったわけではなく、藤原組のスポンサーであったメガネスーパーとの意見の対立が主たる原因だといわれている。

 

藤原組を離脱したみのると船木たちは、新たに自分たちの団体を創設する。それが現在も活発に活動している「パンクラス」である。パンクラスは「完全実力主義」を標榜した。かつて新日やUWFでの理不尽な上下関係に苦しめられたみのるにとって、先輩・後輩など関係ない実力主義の団体こそが理想だった。そして、そのような団体での闘いこそが、モーリス・スミスの強さになすすべもなかった自分を強くしてくれると信じていた。

パンクラスの旗揚げ戦は1993年9月21日に行われた。この日に組まれた5試合すべてがプロレス的要素を完全に排除した「リアルファイト」だった。日本初といっていい試みだったが「道場での練習のような試合をすればいい」と決して難しく考えていたワケではなかった。しかし、いざ蓋を開けてみると、信じられないような短期決着が連続して起こってしまった。みのるは稲垣克臣をチョークスリーパーで絞め落とし、船木はケン・シャムロックに肩固めで敗れた。5試合の合計時間はわずか13分5秒だった。プロレスの試合なら、ちょうどノンタイトルマッチの1試合分程度といったところだろうか。

船木はこの短期決着に怒った観客が暴動を起こすのではないかと本気で不安になったという。しかし、観客はこの劇的な展開に熱狂した。試合時間の短さは、パンクラスの試合がリアルファイトであることの証ともとらえられた。この旗揚げ戦の日から、パンクラスの代名詞は「秒殺」となった。それは同時に、すべての試合をリアルファイトで行うということでもあった。

 

パンクラスの旗揚げ戦から、みのるは総合格闘家としての全盛期を迎える。94年にかつて屈辱を味わされたモーリス・スミスに腕ひしぎ十字固めでリベンジを果たし、95年には旗揚げ戦で船木を破ったケン・シャムロックから勝利をおさめ、パンクラスのタイトルである「キング・オブ・パンクラシスト」の王座を戴冠する。みのるは総合格闘技のパイオニアとして、輝かしい活躍を見せていた。

しかし、96年に入ると首のヘルニアが遠因となり、敗北が目立つようになる。パンクラスのリアルファイトは創設者であるみのるの肉体までも容赦なく破壊していったのだった。そして96年6月にはデビューして半年も満たない近藤有己の前に敗北してしまう。創設者がデビューしたばかりの新人に負けるという事実は「完全実力主義」のパンクラスの象徴的な出来事だといえる。みのるにとって、これはあまりに屈辱的な出来事だった。自らが提唱した「完全実力主義」を自身の敗北によって体現してしまったのだから‥。

その後もみのるは精彩を欠き、山宮恵一郎のような後輩相手に敗北を重ねていくことになる。さらにこの頃、UWFが崩壊したのちにリングスを立ち上げていた前田日明から度重なる挑発を受けるようになっていた。挑発を黙殺していたみのるだったが、はらわたが煮えくり返っていたのは想像にかたくない。ライバル団体のトップである前田と自分が闘えば、それはもはや個人間の問題ではない。パンクラスとリングスの闘いになる。そして、敗北した方は手痛すぎるダメージを負う。前田と闘うというのは、大スランプに陥っていたみのるにとってあまりにリスクの高すぎる選択だった。

 

総合格闘家として不遇の時期を過ごしていたみのるの頭の中には「潔く引退したい」という気持ちが何度も浮かんでは消えていた。スランプの遠因である首のヘルニアが完治する可能性は低い。このままダラダラと勝ち負けを繰り返すようなキャリアを歩むよりは、いっそリングに見切りをつけてしまった方がいいのではないだろうか?しかし、リングの上で闘いたいという素直な気持ちもあった。みのるの心は揺れていた。

そんな中、みのるは思わぬ選手とパンクラスで試合をすることになる。かつて自分が所属していた新日本プロレスのレスラーである獣神サンダー・ライガーだった。時は2002年11月30日、舞台はみのるの故郷である横浜の格闘技の聖地といえる横浜文化体育館だった。みのるは大一番でしか身につけない白のレスリングパンツで試合に臨んだ。

ゴングが鳴ると、みのるとライガーはまずはパンチでお互いをけん制しあう。先に仕掛けたのはライガーだった。鮮やかなローリング・キックをみのるにむけて放つが、みのるはこれをかわし、グラウンドの展開にライガーを引きずりこむ。上になったみのるは、薄いオープンフィンガーグローブでライガーを殴りつける。抵抗するライガーに対して、奇声を発しながらパンチを打つみのる。どこか狂気を感じさせる光景だった。グラウンドでの優位性は完全にみのるにあった。そして1分48秒、みのるはチョークスリーパーでライガーからギブアップを奪ってみせた。

新日からの外敵を迎え撃つメインイベントだったこともあり、試合終了後にはパンクラス勢がリングになだれ込んでみのるを祝福した。肩にかつがれながら観客にむけてガッツポーズを見せるみのるの表情は、なにかをやりきったような雰囲気を漂わせていた。そしてこのライガー戦以降、みのるは総合格闘技の試合を1試合も行っていない。

 

ライガー戦の翌年、みのるはパンクラスの中に「パンクラスMISSION」なる部門を立ち上げる。現在みのるの他に全日本プロレスなどで活躍する佐藤光留などが所属するこのパンクラスMISSIONは、総合格闘技団体であるパンクラスの中にありながら、「プロレス」をする部門だった。35歳になった鈴木みのるは、かつて自らの意思で離れたプロレスの世界に戻ることを決めたのだった‥。

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