鈴木みのる 「世界一性格の悪い男」の世界一の執念 後編

なぜ本物の強さにこだわり続けた鈴木みのるは、リアルファイトからプロレスに回帰することになったのか。それは「どんな形であってもリングに立ち続けたい」という想いから下した決断だった。

「完全実力主義」のパンクラスの闘いは、みのるの身体を容赦なく痛めつけた。後輩たちは、実力主義の名のもとに次々とみのるを超えていった。リアルファイトの領域で、パイオニアである鈴木みのるの全盛期は完全に過ぎ去っていた。それはみのる自身が最もよく理解していることだった。だからこそ、引退の2文字が頭から頭から浮かんでは消えていった。このままリアルファイトを続けていても、自分には明るい未来は見えない。しかし、リングには、強烈なスポットライトを浴びるあの四角いリングには、どうしても立ち続けていたかった。人は無様だと笑うかも知れない。しかし、みのるは人の目など気にすることなく、自分の歩みたい道を歩んできた。新日退団、UWF退団、藤原組退団とパンクラス旗揚げ、みのるはいつだって自分の想いを貫いてきた。ここで潔く引退すれば、それは美しいかも知れない。しかし、自分の本心はどうなのか?鈴木みのる自身の心はどう言っているのか?自問自答の末、みのるはリアルファイトとは別の領域で闘い続けることを決心する。それは、かつて自らの意思で去ったプロレスのリングだった。

キャリアを新日でスタートさせたみのるは、プロレスの厳しさを十分知っている。しかし、プロレスはやり方次第でいくらでも闘いの幅を広げられる。ボロボロになった自分でも、もういちど輝けるかも知れない。みのるはプロレスのリングにかすかな希望を見出したのだった。

 

2003年6月、みのるは古巣である新日本プロレスの武道館大会にて久しぶりのプロレス復帰を果たす。

プロレス復帰に際して、みのるは大きな不安を抱いていた。「今の俺にプロレスが出来るだろうか?」という不安だった。新日で基礎的なプロレステクニックは学んだ。アントニオ猪木とも闘った。しかし、身についているのはあくまでも基礎のみ。UWFでは、いわゆるプロレスらしいプロレス技はやらなかったし、パンクラスでは完全リアルファイトを貫いた。自分と同じくらいの年齢のレスラーが出来るような技を、みのるはこなせる自信がなかった‥。

「鈴木みのる プロレス復帰」というのはある程度のバリューはあるが、賞味期限が短すぎる。半年もすれば新鮮さなど消え失せてしまう。そんな厳しいプロレス業界で自分が生き残るにはどうすればいいのか?みのるは懸命に考えた。

そして導き出した答えが「世界一性格の悪い男」になるということだった。パンクラスで鍛えたテクニックとヒールとして分かりやすいキャラクターを組み合わせれば、唯一無二の存在になれるのではないかと考えた。リアルファイトの世界で生きてきたみのるがヒールレスラーになると決断するまでに葛藤があったのは間違いない。今までの自分の価値観とは全く異なる。プロレスの中でももっともリアルファイトに遠い存在。しかし、みのるはそれを選んだ。そこまでして、リングに残りたかった。そこまでしないと、生き残れないと悟っていた。こうして「世界一性格の悪い男」鈴木みのるが誕生した。

 

たとえ姿を変えたとしてもリングで闘い続けることを決意したみのる。そんな彼にプロレスの神様はチャンスを与えてくれた。

2004年11月にはトップレスラーである佐々木健介と対戦。同じU系出身レスラーである高山善廣とタッグを組み、IWGPタッグ王座を獲得した。高山とのタッグでこの王座を4度防衛している。2005年1月には、当時GHCヘビー級王座の防衛を続け「絶対王者」と呼ばれていた小橋建太に挑戦。圧倒的なパワーを誇る小橋に対し、みのるは執拗な腕攻めなどで対抗。小橋を追い詰める場面もあったが、最後は小橋の剛腕ラリアットの前に撃沈。場所は武道館という大舞台だった。ベルト獲得には失敗したとはいえ、プロレス復帰から2年も経たないうちに大会場のメインを張るという大役を勝ちとったことは、みのるにとって大きな自信となった。

 

2006年3月からは全日本プロレスに闘いの場を移す。同年9月には太陽ケアを破って全日の至宝である三冠ヘビー級ベルトを奪取する。みのるにとって、プロレスではじめて獲得したシングルのベルトだった。このベルトはみのるに多くのものをもたらした。

みのるへのチャレンジャーとして、何人ものレスラーが名を連ねた。みのるの新日時代の先輩であり、06年当時は全日に所属していた武藤敬司もそのひとりだった。武藤は伝説的な大会「激突!!新日本プロレス対UWFインターナショナル全面戦争」において、みのるのUWF時代の先輩である高田延彦を粉砕している。これがUインター崩壊のきっかけのひとつとなった。みのるはかつての先輩を倒した強敵を全日のリングで迎え撃つことになった。そして、白熱した闘いのすえにみのるは武藤を破る。

武藤はみのるにとって因縁があるというだけではなく、プロレスラーとして最大級の評価を受け続けてきたレスラーである。ルックス、テクニック、パワー、スピード、センス。プロレスに必要なあらゆる要素を見事に併せ持つレスラー。みのるは、そんな武藤に勝利してみせた。「世界一性格の悪い男」としてプロレス界に戻ってきた元パンクラシストは、見事にプロレス界で花を咲かせてみせたのだった。

みのるは全日において、三冠ヘビー級王座を獲得しただけではなく、スタン・ハンセン以来となるチャンピオン・カーニバル連覇に成功するなど、プロレス界における実績を次々に積み上げていった。そして、2011年には「新しい実がついたら収穫に来てやる」というセリフを残し、闘いの舞台を新日に移すことになる。

 

当時の新日は、棚橋弘至が中心となった変革が成功をおさめつつある状況だった。その変革とは「脱ストロングスタイル」だった。アントニオ猪木が提唱した「(棚橋いわく)呪縛」から解放され、エンターテイメント性の高いプロレスが繰り広げられていた。そんな新日に、かつてのストロングスタイルを身をもって知る鈴木みのるが戻ってきた。

みのるはTAKAみちのくやタイチらを配下においたユニット「鈴木軍(仮)」を結成する。この時のみのるは既に43歳になろうとしていた。レスラーとしての適齢期はとうに過ぎている。しかし、セビリアンブルーのマットにおいて、みのるの活躍には目を見張るものがあった。同年夏にはいきなりG1クライマックスに出場。年齢を感じさせない闘いぶりを新日のファンに魅せつけた。

翌12年には新日最大の大会である1月4日(通称:イッテンヨン)東京ドーム大会のメインに出場。IWGPヘビー級王者である棚橋に挑戦。過去から脱却することを標榜する棚橋を挑発するかのように、ストロングスタイルを随所に感じさせる戦いぶりを披露。試合には敗れたものの、メインに相応しい名勝負となった。

 

僕が「世界一性格の悪い男」を最も実感したのは、みのるが「鈴木軍」(仮の字は2011年7月に取り払った)を率いてプロレスリング・ノアに侵攻していった時期だった。この時のノアは集客に大苦戦し、経営が行き詰っていた。業務提携していた新日からレスラーの派遣などで支援を受けざるを得ないような状況だった。アングル上は鈴木軍がノアに攻め込むというストーリーだが、ノアを建て直すために鈴木軍が新日から派遣されたようなものだった。

苦境にあるノアマットにあがった鈴木軍は、あっという間にノアのベルトを総ナメにする。みのるは丸藤正道を破ってGHCヘビー級王座を獲得。他の鈴木軍メンバーもノアのベルトを奪い、それを投げ捨てるなどの暴挙に出た。そしてかつて「プロレス界の無敵艦隊」とまでいわれるほどの権勢を誇りながらも苦境に陥ったノアを「泥船」と罵倒した。鈴木軍はヒールとしてノアファンから徹底的に嫌悪された。鈴木軍が乱入などの手段で試合に勝利した後には、リングに物が投げ入れられることもあった。かつてリアルファイトを極めた鈴木みのるは、色々な意味でどこにもいなかった。そこには圧倒的な存在感を放ち、ファンからの憎しみを一身にあつめる一人の悪役レスラーの姿があった。

鈴木軍の攻撃の矛先は、ノアの創立者であり試合中に事故により死去した三沢光晴にまで及んだ。鈴木軍は毎年行われる三沢のメモリアル大会でもいつもと変わらぬ悪らつなファイトを展開。伝説的なプロレスラーでもあるノアの創立者に対して、ひとかけらのリスペクトも見せなかった。

当時の僕は、そんな鈴木軍を正直不快に思っていた。『アイツら、はやくノアから出て行ってくれないかな』というのが正直な心境だった。いくらヒールにしても、あきらかにやり方が汚すぎるように思えたし、亡くなった人まで馬鹿にするようなスタイルには疑問を通り越して嫌悪さえ感じた。同じように思っていた人は他にもいたようで、みのる自身が後に語った話によれば、ファンから抗議の手紙が送られてきたこともあったという。いくらみのるでも、気持ちがいいわけがない。

ノアファンから大ブーイングを受けながらも、鈴木軍はノアのマットに約2年間ものあいだ留まり続けた。みのるはこの2年間のあいだ、なにを思っていたのだろうか。ひとつのヒール・ユニットがあれほどの憎しみを浴びるというのは、さすがに珍しい。他団体から派遣されてきたユニットだというのも大きいだろうが、やはりいちばんの原因は鈴木軍の「やりすぎ」とも思えるやり方だった。ノアのレスラーに対して、ここで書くのも躊躇するようなひどい言葉を浴びせかけて挑発したり、ファンに対しても罵倒や挑発の言葉を浴びせた。鈴木みのると鈴木軍がノアでありったけの憎悪を浴びた。

そんな状況が2年間も続いたのいうのは、みのるにとっても決して楽ではなかったハズだ。みのるは何を想い、あの2年間を過ごしたのか?完全なる僕の推測なのだけれど、みのるが心に抱いていたのは、レスラーとしての「プロ意識」ではないだろうか。

プロレス復帰してから10年以上が経過した。かつてリアルファイトの世界に生きたみのるの中にも、レスラーとして強固なプロ意識があったに違いない。それは「ヒールとして観客から『強いリアクション』を起こす」といったものではないかと思う。「強いリアクション」とは、決して歓声や声援だけではない。ブーイングや罵声であっても、それはリアクションには違いない。たとえファンからどれほど嫌われても、どんな言葉を浴びせられても、みのるのプロ意識においては、それはプロのレスラーとしての成功の証となる。だからこそみのるは、ブーイングに微塵たりとも怯えたりはしなかった。そして、する必要もなかった。

 

みのるは幸福なレスラーだと思う。リアルファイトの世界から大幅に変化したプロレスの世界にカムバックし、ついにはレスラーとして確固たる地位とゆるぎないプロ意識を持つまでになった。ずっとレスラーとして活動してきた人間でも、みのるほどのプロ意識を持つに至っていない者は決して少なくないハズだ。

なぜみのるが強固なプロ意識を持っているのか?それはみのるが精神的にタフでなければ務まらないヒールであるから。なぜみのるはヒールなのか?それは基礎的なプロレス技術しか持たず、首に古傷があるというハンディのうえで闘わねばならないから。そこまでして、なぜみのるはプロレスを続けるのか?それは、みのるがリングで生きるということに対して「世界一の執念」を持っているから。

鈴木みのるという男の皮をめくっていくと、最後に現れるのは、リングへの執念ということになる。何があっても、どんな姿であっても、本当の限界を迎えるまでリングに立っていたい。その執念がみのるを支えている。その執念がどこから芽生えたものなのかは分からない。僕のような人間が断言できるような軽いものではない。それはみのるにしか分からない。いや、もしかしたら、みのる自身ですら分かっていないのかも知れない。

 

みのるは現在、闘いの場をふたたび新日に戻している。オカダ・カズチカの持つIWGPヘビーに挑戦したものの敗れ、棚橋から奪ったIWGPインターコンチネンタル王座はすぐに内藤哲也に奪われてしまった。「みのるも限界だ」という声も聞かれるようになった。しかし、恐ろしいのは、1989年にアントニオ猪木とシングルで闘った男がオカダ・カズチカと2017年にタイトル・マッチを行ったという真実。28年という年月を経過しても、同じ団体のトップレスラーと闘える男、それが鈴木みのる。世界一性格が悪く、世界一執念深い男である。

そんな男の限界は、まだまだ先なのではないだろうか。そう簡単に限界を迎えてしまうほど、鈴木みのるという男はヤワではない。周囲が無理だといってもリングに立とうとするだろう。最後のリングは新日ではないかも知れない。もしかしたら、小さなインディー団体のリングかも知れない。しかし、そこがどんなリングであったとしても、みのるはヒールを貫き、ファンからブーイングを浴び、そして、やっぱり最後まであの不敵な笑みを貫くのではないだろうか。

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