内藤哲也 悲しき運命(デスティーノ)を変えた男

2018年6月9日大阪城ホール。内藤哲也はセミファイナルでIWGPインターコンチネンタル王者として、WWEで大活躍した世界的スーパースターであるクリス・ジェリコを迎え撃った。鈴木みのるから同王座を奪取してからの初防衛戦。それも1万人以上が見守る大会場での大一番。絶対に負けてはならない試合だった。しかし、入場時にジェリコから急襲され、自分のペースを掴み切れぬまま、最後はジェリコの必殺技であるコードブレイカーを食らってしまい、無念の3カウントを聞いてしまった。場外乱闘の目立った荒々しい試合であり、内藤の顔には出血もみられた。試合終了後、ジェリコはリングに横たわる内藤を暴行。内藤のユニット「ロス・インゴベルナブレス・デ・ハポン」のメンバーであるEVILが救出に入るまで、内藤はなすすべなくジェリコの暴行にさらされるという屈辱を味わった。

このタイトルマッチにいたるまで、内藤とジェリコは舌戦を繰り広げてきた。内藤は世界のスーパースターを散々挑発した。しかし、結果は無残な敗北に終わった。これが普通のレスラーであれば「失態」「しょっぱい」などと揶揄されていたかも知れない。いくら相手が強豪だったとはいえ、挑発合戦を繰り返した相手に初防衛戦でベルトを明け渡してしまったのだから。しかし、僕は内藤にとってこの敗北は大きな挫折だとは思わない。内藤は必ず立ち上がり、またドラマを見せてくれると信じている。なぜなら、内藤哲也が挫折と屈辱を味わいながら、日本プロレス界の頂点に上り詰めた男だということを知っているから‥。

 

東京の下町で生まれ育った内藤は、高校卒業後に進学や就職をせず、プロレスラーを目指した。父親の影響で、幼いころからプロレスを観てきた。特に新日本プロレスの大ファンだった。内藤少年は、自分が将来プロレスラーになることしか考えられなかった。しかし、レスラーを夢見た内藤少年はいきなり挫折を味わうことになる。それはケガだった。アニマル浜口ジムでレスラーになるためのトレーニングを積んでいたのだが、ケガをしたことにより、あこがれの新日本プロレスの入門テストを受けられなくなってしまった。当時はまだ身体も出来あがっていなかったせいかケガが多く、度重なるケガのせいで3年連続で入門テストのチャンスを逃してしまう。やっとの思いでテストに合格し新日に入団したのは2005年の終わりの頃。内藤は23歳になっていた。ずいぶんと回り道をしてしまった。

入団までにさんざん苦労したせいか、入団してしばらくの間、内藤は順調だった。2006年10月に、後にキャプテン・ニュージャパン(さらに後には初代ボーン・ソルジャーとなる)となる平澤光秀を相手にプロ初白星を挙げると、その試合がヤングライオンベストバウト賞に選ばれる。欠場者が出たことで2007年6月にベスト・オブ・ザ・スーパージュニアに初出場するというチャンスに恵まれ、外道、エル・サムライという強敵を相手に金星を挙げる。

2008年には高橋裕二郎とタッグ「NO LIMIT」を結成し、IWGPジュニアタッグ王座に初挑戦する。棚橋弘至のタッグパートナーという大抜擢を受けて、全日本プロレスに参戦したりもした。10月には裕二郎とのタッグでIWGPジュニアタッグ王座を戴冠し、年末には棚橋と初シングルマッチを行った。棚橋との初対決は敗北に終わったが、この年は内藤にとって恵みの年だった。翌年には裕二郎と共にメキシコに遠征。髪切りマッチに敗北して坊主にされたりもしたが、内藤のプロレスは現地でも高い評価を受けた。そして年末に高橋とともに日本に凱旋帰国し、ヘビー級に転向することになる。

ヘビーに転向してからも内藤は順調だった。1.4東京ドーム大会ではIWGPタッグ王座を獲得し。ニュー・ジャパン・カップでは2回戦で棚橋と対戦し、得意のスターダスト・プレスで大金星を挙げてみせた。技名の通り、内藤は新日の輝ける星だった。しかし、そんなときに内藤は思いもよらぬ行動に打って出る。なんと裕二郎とともに中邑真輔が率いるヒールユニット「CHAOS」に加入したのだった。そして、この頃から輝ける新星にも徐々に影が差し始める‥。

CHAOSに加入した翌年2011年は内藤にとって試練の年となった。シングルでもタッグでも思うような結果が残せなかった。かつて棚橋を破った縁起のいいはずのニュー・ジャパン・カップでは1回戦でゼロワンの田中将斗に敗北。裕二郎とIWGPタッグ王座に挑戦するもピンフォール負けを喫する。そして5月、内藤はCHAOSの面々から裏切りに遭い、ユニット追放という憂き目をみることになる。当然のことながら、裕二郎とのNO LIMITも解散となってしまった。

なんとか巻き返しをはかるべく出場したG1 CLIMAXでは大奮戦する。開幕戦では裕二郎を相手に敗北を喫するもその後立ち直り、棚橋に勝利して決勝戦へ進出する。しかし、決勝では自らを追放したCHAOSのリーダである中邑の前に惜敗する。プロレスとは残酷なもので、優勝した者には惜しみない拍手が注がれるが、準優勝に終わってしまった者に目をむける者はほとんどいない。優勝と準優勝では天と地以上の差がある。10月にはG1で棚橋に勝利をおさめたこともあり、棚橋が保持するIWGPヘビー級王座に初挑戦することになるが、惜しくもベルト奪取には至らなかった。良いところまでは進むが、あと少し及ばない。内藤はもがき苦しんでいた。

2014年のイッテンヨン東京ドームでは、あこがれの武藤敬司とシングルマッチを行うも敗北。どちらかといえば武藤の良さばかりが目立つ試合展開となってしまい、内藤はこの大舞台でも評価を上げることが出来なかった。この試合を見直してみると、会場の支持も古巣新日の大舞台に戻ってきた武藤の方に偏っているような印象を受けた。そして、この年のイッテンヨンでは、内藤の存在をかき消してしまうような男が現れた。凱旋帰国を離し、IWGP王者である棚橋に挑戦を表明したオカダ・カズチカである。

この時オカダを支持するファンは決して多くはなかったが、オカダは2月に棚橋から宣言通り王座を奪取する。そして「レインメーカー」として新日のメインストリームに一気に躍り出ることになる。内藤はそのオカダにたいして2度目のIWGP挑戦を果たすものの、オカダの圧倒的な勢いを止めることはままならず、完敗を喫してしまう。この年の夏には膝を故障し、長期欠場に入ることになる。かつて新日の輝ける新星だった男は、突如として現れたオカダという天才に追い抜かれたうえ、雌伏を強いられることになってしまった。

2013年の前半はケガの影響で表舞台に出ることはなく、リハビリを繰り返す日々が続いた。リハビリのかいもあり、8月には4年連続でのG1出場を果たす。この頃の新日はオカダと棚橋のIWGPをめぐる闘いに注目が集まっており、ケガから復帰したばかりの内藤に目をやるファンは決して多くはなかった。しかし、内藤は予選ブロックを1位で通過すると、決勝で棚橋を破り、ついに悲願のG1優勝を成し遂げた。この内藤の快挙は驚きをもって迎えられた。僕も内藤が優勝するとは全く予想していなかった。そして、優勝を果たしたはずの内藤にあまり期待もしていなかった。この時の僕の内藤に対するイメージは「ルチャの出来るレスラー」といった程度のものだった。棚橋、中邑、オカダの3トップと比較すると、どうしても圧倒的な差を感じざるをえなかった。ヒールユニットであるCHAOSを経て何となくベビーターンをしたせいか、どのようなキャラクターの選手なのかも掴みきれなかった。ザクっとした言い方をすれば「キャラが弱い」ように感じていた。

 

内藤にとって最大のトラウマとなる出来事は、やはり2014年のイッテンヨンということになる。例年、イッテンヨンのメインイベントはIWGPヘビー級選手権だった。内藤はG1優勝を果たしたことで、新日最大の大会のメインを務めることになっていた。しかし、ファン投票の結果、イッテンヨンはダブルメインが組まれることになり、トリを飾るのは中邑VS棚橋のIWGPインターコンチネンタル戦となった。オカダVS内藤のIWGPヘビー級選手権は事実上セミファイナルに格下げされることになってしまう。ベルトの価値でいえば、初代王者がアントニオ猪木であり、藤波や長州が腰に巻いてきたIWGPヘビーの方がインターコンチを上回っているのは言うまでもない。それがセミに格下げされた。これはひとつの事件といっても過言ではないと思う。オカダVS内藤という現在の新日の黄金カードは、わずか4年前には新日のフラッグシップタイトルを賭けてもメインを飾ることができなかった。僕はこのような状況になったのは、内藤がファンからの支持を得られていないからだと考えた。もしもオカダに挑戦するのが別のレスラーであれば、結果は変わっていたのではないか、そんな風に思っていた。後にファンがヒールでもない内藤にたいして大きなブーイングを送ることが話題になったが、イッテンヨンでの格下げ事件を考えると、この頃の内藤にはファンからの支持という最も大切なものが欠如していたと思わざるを得ない。そして、内藤はまたもオカダに敗れ、ベルトを手にすることが出来なかった。メインも飾れず、ベルトも獲れない。これがケガを克服してG1優勝を果たした男に与えられた結果だった。

しかし、このあまりに残酷なイッテンヨン事件は内藤の内面を変えた。この時は知る由もなかったが、内藤の心の中でなにかが弾けたのだと思う。単なる「ルチャの出来るレスラー」である内藤はこのイッテンヨンで死んだ。そして、第2の内藤哲也が目覚めようとしていた‥。

2015年5月、内藤は久しぶりにメキシコ遠征に旅立った。自分自身を変えなければいけない。そうしなければ未来はない。そんな悲壮な決意を抱きながらの遠征だった。行き先は同地のメジャー団体「CMLL」。内藤はここで面白いユニットを目にする。それが「Los Ingobernables(ロス・インゴベルナブレス)」だった。日本語に訳せば「制御不能な奴ら」という意味のこのユニットは、テクニコ(ベビー)・ルード(ヒール)といった伝統的なルチャリブレでの役割分担にとらわれず、一種ニュートラルな状態で活躍する人気ユニットだった。内藤はこのユニットに「自由」を垣間見る。ファンに迎合することもなく、ブーイングを浴びても気にもかけず、自分たちのやりたいことをやる。今までの自分になかったものがあるかも知れない。そんな思いから内藤はロス・インゴベルナブレスの一員となった。

内藤のこのメキシコ遠征は非常に短く。わずか1ヶ月で日本に帰国している。しかし、帰国したばかりの内藤の様子はあきらかにおかしかった。ロス・インゴベルナブレスの帽子やTシャツを身につけているのはともかくとして、今までの内藤には見られなかったような不穏なそぶりを見せるようになる。試合でも相手を焦らすようにゆっくりと入場したり、相手の攻撃をすかしたりするような行動に出る。ついには会社に対する不満を公に口にするようになる。当時の僕はあまり背景を分かっておらず、内藤はキャラを変えようともがき、しかも肝心のファンの支持を全く得られていないような気がしていた。実際、そんな内藤に対するファンのブーイングは以前よりも増していたような気がする。しかし、内藤はそんなことを全く気にしていないように見えた。それは今考えてみれば当たり前のことで、ロス・インゴベルナブレスのレスラーがファンからのブーイングを気に病んでいたら、それはメンバー失格。そして内藤はこの年の暮れに日本版ロス・インゴベルナブレスとでもいうべき「ロス・インゴベルナブレス・デ・ハポン(略称L・I・J」を正式に結成する。メンバーにはEVILとBUSHIが加わった。

 

2016年、新日本プロレスは激震に襲われた。看板レスラーの中邑真輔、A・J・スタイルズがWWEへの移籍を表明。トップ戦線が大きく変わることになった。棚橋やオカダにならぶスター選手を見出さなければならない。棚橋とオカダの対決がドル箱マッチなのは変わらないが、この頃からすでに「その顔合わせは見飽きた」という声がファンからも高まっていた。内藤はこのチャンスを見逃さなかった。春に行われたニュー・ジャパン・カップでは決勝戦で過去3度の優勝経験がある後藤洋央紀を破って初優勝を果たす。そして4月にはオカダの持つIWGPヘビー級王座に挑戦。内藤にとって同王座への挑戦はこれで4度目だった。体格やパワーで勝るオカダの前に次第に劣勢に追い込まれ、またもや敗北かと思われたが、突如マスクを被った男が試合に乱入してくる。当時フリーで活動していた真田聖也だった。真田のアシストを受け、内藤はスターダスト・プレスに代わる新たな必殺技「デスティーノ(スペイン語で「運命」という意味)」をオカダに見舞い、ついにオカダから3カウントを奪ってみせた。そして幼い頃からの憧れであったIWGPヘビー級のベルトを手にした。しかし、待望のこのベルトに対して内藤はとんでもないことをする。ベルトを放り投げ、歴代の王者がしてきたようなベルトに対する尊敬の念を一切はらわないことを宣言したのだった。当時ベルトを粗末に扱う内藤に対して先輩レスラーが激怒しただとか、そんな話題がファンの間を賑わせていたのは記憶に新しい。しかし、内藤はそんなことを気にしなかった。なぜなら内藤は「自由」を手に入れたレスラーなのだから。そして新メンバーにSANADAと名を変えた真田聖也を加えたL・I・Jは大旋風を巻き起こしていく。

完全なるヒール転向を果たした内藤は、次第にファンの支持を集めていく。IWGPヘビーは石井智宏を相手に初防衛に成功したものの、リマッチでオカダに奪還されてしまった。しかし、内藤とL・I・Jの人気は衰えるどころかさらに拡大していく。会場にはL・I・Jの帽子やTシャツを身につけたファンで溢れかえり、かつてのブーイングは大きな声援へと変わっていった。2016年にはプロレス大賞MVPを獲得し、翌年のイッテンヨンでは棚橋からIWGPインターコンチネンタル王座を奪取してみせた。この年のイッテンヨンでは海外遠征から凱旋帰国を果たしL・I・Jに電撃加入した高橋ヒロムがKUSHIDAの持つIWGPジュニアヘビー級王座を奪取し、このユニットの人気を決定的なものにした。ヒロムが持っている猫のぬいぐるみ「ダリル」まで人気を博し、当然のようにグッズとして販売された。そして、2018年6月現在、この人気に全く陰りは見えていない。新日は売上におけるグッズのウエイトが非常に高いといわれているが、もっとも売れているのがL・I・Jだという。たしかに新日の会場に足を運べば前後左右の人がL・I・Jの帽子なりリストバンドなりTシャツなりを身につけていたりすることが珍しくない。

 

どうして内藤哲也とL・I・Jはこれほど支持を集めるのか?完全に個人的な推測なのだけれど、それは彼らが周囲に気を使わず、好き勝手に振舞っているように見えるからだと思う。今の時代、周囲の人間関係に気を使うことが日常生活においてかなり重要になっていきている。みんな周囲に気を使い、嫌われないようにして生きている。そして、多くの人がそのことに多少なりともうんざりしている。しかし、L・I・Jはそれをしない。好きなように挑発し、好きなように闘い、好きなように生きている。そんな彼らに声援を送ることで、一瞬の間ではあるけども彼らと同化したような気持になれる。極端な言い方をすれば、L・I・Jは社会生活のストレスからファンを解放してくれる存在なのだと思う。

内藤と対戦した鈴木みのるは、戦前の挑発合戦の中で「あいつらのファンにはガキが多い」というコメントを残している。よく言われていることだけれど、今の子どもや若い人の方が学校生活でのストレスは多いという。学校で顔を合わせる時だけではなく、SNSでつながっていることが逆に負担になっているとも聞く。そんな彼らにとっては、L・I・Jはいっそう輝いて見えるのかも知れない。

話がずいぶんと長くなってしまった。冒頭のように、内藤はジェリコにベルトを奪われ、敗北にまみれた。それは訂正のしようのない事実。しかし、内藤はこれ以上の挫折や屈辱を何度も味わい、それでもあきらめずに努力を続けてきた。その境地が自由を極めるL・I・Jなのだと思う。
L・I・Jの輝きも、かつての内藤の苦しみを知ったうえで見れば少し違って見える。ここにたどり着くまでに、どれだけ傷ついただろう、どれだけ辛かっただろう。内藤のあの不敵な笑みの下には、数えきれない苦しみと悲しみが刻まれている。いまL・I・Jを応援しているファンの中には、内藤の不遇な時代をよく知る人もいると思う。そんな人たちにとって内藤は単なる自由なヒールではなく、「運命は変えられる」ことの象徴なのかも知れない。
僕は正直、内藤はファンからの支持も得られないし、偉大なチャンピオンにもなれない「中の上」程度のレスラーに終わる運命にあると思っていた。G1で優勝したにも関わらずブーイングを浴び、イッテンヨンでは格下げの憂き目にもあった。しかし、内藤は自らの運命を自らの力で変えてみせた。前述のとおり、内藤の必殺技は「デスティーノ(運命)」という。内藤は自ら運命を変えてみせると決意し、この名をつけたのではないだろうか?そして事実、この美しい技は数々の強豪をマットに沈め、観客を熱狂させ、内藤哲也とL・I・Jの大旋風を日本中に巻き起こした。内藤は運命を変えてみせた。

今現在、内藤哲也はレスラーとしてどん底の状況にある。しかし、この程度のことで屈する内藤ではない。それはファンがいちばんよく分かっていると思う。昨日の大阪ドミニオンから、内藤哲也の新しい運命が始まった。そして、きっとそれは多くの人を熱狂に導くものだと信じている。

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