書評『完本 1976年のアントニオ猪木』柳澤健 文藝春秋

この本は2007年に出版された『1976年のアントニオ猪木』に大幅な加筆修正を加え、巻末にアントニオ猪木本人のインタビューを加えた一冊となっている。修正前の方は読んでいないので何とも言えないが、本書にかぎっていえば、大変スリリングで全く退屈することなく読み終えることが出来た。

 

なぜスリリングなのかといえば、アントニオ猪木という日本プロレス界のビッグネームが何度となくピンチにさらされながらも、辛くもその危機から脱出するというエピソードが次々と登場するからである。

猪木にとって最初のピンチは、日本プロレスで同じ釜の飯を食ったジャイアント馬場によってもたらされる。力道山の死後、猪木が新日本プロレスを創設したように、馬場は全日本プロレスを創設する。ふたりの最大の違いは、プロレスの本場アメリカにおける知名度とかの地のレスラーたちとの人脈の太さだった。マディソンスクエア・ガーデンでのタイトルマッチも経験した馬場は、アメリカにおいて猪木とは比べものにならないほどの知名度を誇った。そして、それに比例するかのように太い人脈を持っていた。馬場はその人脈を生かし、アメリカの人気レスラーを次々と全日本プロレスのマットに招聘することに成功する。一方の猪木は馬場のような太いパイプもないどころか、新日つぶしを画策する馬場によって、外国人レスラーの招聘を妨害されてしまう。当時はまだ「有名外国人レスラーが来日する」ということが大きなバリューになっていた。新日はいきなり倒産の危機をむかえる。それはアントニオ猪木というレスラーのピンチでもあった。
ここで猪木は、アメリカでは二流のベビー・フェイスだった「インドの狂虎」タイガー・ジェット・シンを新日のリングにあげ、彼をアメリカとは対照的な圧倒的ヒールとして売り出すことに成功する。猪木とシンの対決は大きな話題を呼び、新日は倒産の危機から脱することが出来た。

 

この本のタイトルにもある「1976年」とは、アントニオ猪木が歴史に残る4つの死闘を闘った年のことである。ウィリエム・ルスカ(オランダ)、モハメド・アリ(アメリカ)、パク・ソンナン(韓国)、アクラム・ペールワン(パキスタン)この4人の男たちとの闘いが本書のメインテーマとなっている。
ただ単に猪木が世界の強豪と闘いを繰り広げるという格闘活劇の物語ではない。猪木の対戦相手それぞれが猪木と闘わざるを得ない事情、闘わなくてはいけない理由を持ち、人生を賭けてリングに上がってくる。
そして向き合う猪木にも絶対に負けられない理由がある。猪木は「プロレスラーとして馬場を超えることは不可能」だと悟っていた。馬場のような巨人でもなく、一流レスラーを招くことも出来ない自分は、レスラーとしては馬場の上にいけない。しかし、世界中の格闘家から勝利をおさめれば、プロレスという範疇にとらわれることなく、アスリートとして馬場を超越することが出来る。結果としてそれは、新日本プロレスの繁栄にもつながる。猪木は馬場に対する強烈なライバル意識、自身の強すぎる自己顕示欲、そして団体のために絶対に負けることが出来なかった。1976年に行われた4つの死闘には、猪木の悲壮な決意が宿っていた。

 

この作品には「善人」といえるような人間がほとんど登場しない。新日つぶしを画策した馬場も、自らのために世界の格闘家たちを利用した猪木も、決して善人ではない。そして猪木と闘った者たちも、腹に一物も二物もある奴らばかりだった。

ルスカとアリの話には、それほど強烈なエピソードは出てこない。ルスカは猪木との闘いにより、金メダルを獲得しながらも不遇が続いた人生に一縷の希望を見出した。決して幸福とはいえない人生だったが、猪木と闘ったおかげで晩年にはある程度の社会的名声と経済的な安定を手にすることも出来た。
アリはどちらかといえば、猪木の被害者だといえる。リアルファイトではなくプロレスをやるつもりで来日したのに、突然猪木サイドはリアルファイトを主張する。一般には、アリがルールを自らに都合の良いように変更するよう強硬に主張したといわれるが、突然リアルファイトを切り出されたら、誰だってそうするだろう。アリは猪木のエゴイズムの犠牲になった。なんとか引き分けになったものの、いわゆる猪木の「アリキック」により脚に重傷を負い、結果としてそれは彼のボクサー人生を縮めてしまうことになった。そして試合そのものも当時は「世紀の凡戦」と酷評されてしまった。

相手が強烈だったのは、韓国のパク・ソンナンとパキスタンのアクラム・ペールワンである。この場合の「相手」というのは対戦相手本人だけではなく、その周囲にいる人間たちのことでもある。彼らはモハメド・アリと引き分けた猪木のネーム・バリューを利用しようと企んでいた。猪木がルスカやアリを利用したように‥。

当時の韓国プロレス界は、日本プロレスで活躍した後に帰国した金一(大木金太郎)が権勢をふるっていた。彼は50歳を過ぎてもなおチャンピオンベルトを手放そうとしなかった。そんな状況では韓国のプロレスに未来はない。彼に代わるスターが必要だった。そして、そのスターこそパク・ソンナンだった。
パク・ソンナンは身長198cmという巨体を誇り「韓国の馬場」とも呼ばれていた。韓国や日本でプロレスを行っていたパクはアメリカに遠征し、かの地でレスラーとして大きな成長を遂げた。そして、アントニオ猪木から勝利をおさめ、金一に代わるトップレスラーとなるために、韓国に呼び戻された。

アントニオ猪木とパク・ソンナンの試合は大邱とソウルのシングル2連戦ということになっていた。最初の大邱では猪木が卑怯な手を使ってパクから勝利をおさめる。しかし、2戦目のソウルではパクが猪木から勝利し、パクはスターダムを一気に駆け上がる。これが韓国陣営の描いたストーリーだった。
しかし、この打算は猪木のエゴイズムによって見事に打ち砕かれる。猪木はソウルでの敗北を拒絶したのだった。なぜ俺がレベルの低い韓国人レスラーに負けなければいけないのか?しかも相手は「韓国の馬場」だと。よりによって馬場に負けるなんてありえない。そう感じた猪木は土壇場になって負けを拒絶した。自国に招いてしまえばこっちのものだと思っていた韓国陣営は慌てふためいた。しかし、猪木を翻意させることは叶わず、大邱でパクが勝利し、首都ソウルでの試合では猪木が勝つという不可解なブックが組まれた。
しかし、さらに猪木はとんでもないことをしてしまう。なんと大邱での敗北を試合直前になって拒否してしまったのだ。韓国側のプロモーターは当然激怒した。しかし、もう試合の時刻が迫っている。パクは勝つつもりでいる。しかし、猪木は負けを拒絶している。当然試合はリアルファイトの様相を呈することになった。

パク・ソンナンはアメリカでのショー的なプロレスをベースにしている。シューティングの強さを持ち合わせているハズもなかった。一方の猪木は、かつて師事したカール・ゴッチから素晴らしいグラウンド・テクニックを伝授され、アリとも引き分けたほどの実力を持っている。勝負の行方は最初から分かり切っていた。試合はほとんどリンチに近かった。猪木はパクの首を絞め、脊髄に肘を打ち込んだ。そしてなんと、右手の指2本をパクの左目に入れるという暴挙に出る。そしてパクをリングの下に蹴落とすと、戦意喪失したパクはリングに戻ってくることが出来なかった。試合はノーコンテストとされた。

第2戦のソウルでも、猪木のエゴイズムは遺憾なく発揮された。猪木は大邱であんなことをしたにも関わらず、大邱の件は既に謝罪したことから解決済みであるとし、約束通りソウルでの自身の勝利を要求した。当然プロモーターとは大いにもめたが、猪木とパクの試合はテレビで生中継されており、猪木との交渉のせいでテレビには空っぽのリングが映り続けていた。プロモーターは断腸の思いで、パクの敗北を受け入れた。「猪木を踏み台にしてパク・ソンナンをスターに仕立て上げよう」という韓国側の目論見は、猪木の狂気とエゴイズムによって打ち砕かれたのだった。
パクは猪木のリング外での鉄柱攻撃を受け、そのままリングアウト負けを喫した。あまりにも呆気ない敗北だった。母国の英雄の敗北に怒り狂った観客は猪木の控室を襲撃。猪木と新日の面々は辛くも逃げ出し、なんとか無事に帰国することが出来た。
この試合により、韓国プロレスの未来は暗く閉ざされた。パク・ソンナンはアメリカでひとりのレスラーとして生きる道を選んだ。猪木は韓国のプロレスから夢と希望を一瞬にして奪い取ってしまったのだった。韓国プロレス界は、猪木を利用しようとしたばかりに、とんでもない報いを受けてしまったのだった。

 

猪木を使ってパク・ソンナンを売り出そうとした韓国プロレス界の面々は、決して善人ではないが、卑劣な手段を使って猪木を陥れたりはしていない。アリ同様、猪木の被害者といってもいいかも知れない。彼らと比べものにならないぐらい曲者だったのが、パキスタンのアクラム・ペールワン擁するボル・ブラザーズだった。
彼らはプロレスをするという名目で猪木をパキスタンに呼び寄せておきながら、試合直前になってリアル・ファイトを主張したのだった。営業トップの新間寿や新日ではメイン・レフェリーと務めているミスター高橋がボル・ブラザーズの説得を試みるが、彼らは断固としてリアル・ファイトを主張する。アクラム・ペールワンなら猪木に勝てるという自信があったのだ。テレビの中継もあるし、なにしろここは自分たちの国パキスタンだ。猪木はリアル・ファイトに応じざるを得なくなり、ペールワンが圧勝する。そしてボル・ブラザーズの権威はいっそう高まる。それが彼らの狙いだった。猪木は韓国で自分がやったことの報いを受けるかのような窮地に追い込まれていた。しかし、反日感情が強かった当時の韓国でとんでもないことをやらかした猪木の精神力は並大抵のものではなかった。猪木はリアル・ファイトを受諾すると、敵地のリングにむかった。

47歳のアクラムは腹が出ており、お世辞にも引き締まった肉体とはいえなかった。当時の猪木は日々の鍛錬を欠かさず、見事な肉体を誇っていた。アクラムはアリに対して寝転がるばかりで勝負を仕掛けなかった猪木の映像を観て「この臆病者になら勝てる」と楽観視していたが、リングに立つふたりの姿はあまりにも対照的だった。そして試合が始まると、猪木はアクラムを得意のグラウンドに引きずり込み、人体の急所である人中(鼻の下)を手首を骨を使って責め続ける、痛みに苦しみ、アクラムの息が荒くなる。そんな相手に対し、猪木はかつてパク・ソンナンにしたように、指を目に突っ込んでみせたのだった。テレビカメラに映らないよう、カメラの位置を正確に把握してからの確信犯的行為だった。猪木は怒っていた。世界のモハメド・アリと互角に戦った自分を嵌めようとしたボル・ブラザーズの卑劣さに。こんな奴ら相手だったら、何をしたって構わない。約5万人の観衆が見守る中で、猪木の狂気が爆発したのだった。
アクラムは目を突かれたことを訴えたが、試合は続行された。しかし、アクラムにはもう体力は残されていなかった。猪木はアクラムの腕を極めた。リングの中央、ロープに逃げることも出来ない。しかし、アクラムはギブアップしなかった。そして、猪木は腕を極め続け、ついにアクラムの腕を脱臼させる。試合続行は不可能!そう判断したレフェリーが試合を止めた。猪木はボル・ブラザースの策略をおのれの力で打ち砕いてみせたのだった。

パキスタンの英雄アクラム・ペールワンは、日本からやってきたアントニオ猪木に何もさせてもらえず、腕を折られて敗北した。この動かしがたい事実はパキスタンの人々に衝撃を与えた。人々は猪木に怒りをむけるようなことはしなかった。猪木が目を突いたことは誰も知らなかったし、あまりにも猪木は強すぎた。自分たちの英雄は日本のレスラー相手に何も出来なかった。ボル・ブラザーズはこの試合を契機に、急速に人々の支持を失っていくことになる。

 

「1976年のアントニオ猪木」はあらゆるものを破壊していった。アリのボクサー人生を縮め、韓国プロレスの未来を奪った。そしてパキスタンの格闘一族の名誉を粉々に打ち砕いた。しかし、そうした報いを受けるかのようにその後の猪木は迷走していく。
第2の故郷ブラジルで興したアントン・ハイセルは大赤字を生み出し、それを埋めるために新日本プロレスの収益が充てられた。坂口征二は自宅を抵当に入れてまで猪木に資金を提供した。タイガーマスクのブームで新日の会場はどこでも満員になった。しかし、収益のほとんどは猪木の個人的な事業であるアントン・ハイセルの赤字に充てられる。猪木はレスラーからも新日の背広組からの信頼も失った。
政治家に転身してからも、北朝鮮で「平和のための平壌国際体育・文化祝典」を行うために新日を利用し、結果として新日は大きな借金を背負い込むことになった。東京ドームで開催されたUWFインターとの対抗戦が大成功をおさめたことで借金は返済したものの、新日関係者で猪木を信用するものは誰ひとりとしていなくなっていた。
猪木が総合格闘技のプロデュースに乗り出すと、新日のレスラーは次々と総合のリングに駆り出されていった。そして、一部の例外を除き無残な敗北を喫していった。猪木は自らがかつて提唱したプロレスは「最強」であるという概念を自らの手で壊してしまった。

総合進出で痛手を負った新日は一時は倒産寸前にまで追い込まれる。新日が現在のような復活を果たすまでに、長い雌伏の時を強いられた。そして、不死鳥のごとく復活を果たした現在の新日には、猪木の痕跡は微塵も見当たらない。猪木はもう会場で挨拶することもなければ、レスラーを激励することもない。今の新日はかつて猪木が作り上げた新日とは全くの別物だ。猪木は自らの手で、自らが作り上げた新日本プロレスまでも破壊してしまったのだった。

しかし、アントニオ猪木が行った異種格闘技戦は総合格闘技に姿を変え、今の世界中で愛されている。猪木という人間のパワーは、新日本プロレスという小さな器には到底おさまりきらなかったのかも知れない。

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