石森太二 小さな天才は世界を目指す

プロレスリング・ノアに所属していた石森太二が退団したのは、本当に唐突なことだった。Hi69とのタッグで戴冠していたGHCジュニアヘビー級タッグ王座を、田中稔・小川良成というベテラン・タッグに奪われた直後の退団表明だった。

「今の自分のファイトスタイルであと何年プロレスが続けられるかと考えたら、残り10年もできないと思います。ノアに上がるようになって12年、プロレスキャリアなら16年、年齢は35歳。ここが決断の時、ここで一歩を踏み出さなければ一生後悔するだろうと思い、ノアの石森太二としては一区切りさせていただいて、フリーという立場から新たなステージに向かうことを決意しました。」

ファンはざわついた。石森というレスラーがノアから去ることを惜しむ声も多く聞かれた。

僕も石森がノアで観られなくなるのは残念だったが、不思議と石森がフリーになるということへの驚きはあまりなかった。それは、石森というレスラーに、どことなく団体の枠にとらわれない自由な雰囲気を感じていたからだと思う。

 

石森太二は、宮城県多賀城市に生を受けた。身体の小さな少年だったが、プロレスラーになりたいという熱い気持ちを持っていた。そんな彼にとってぴったりな団体があった。レスラーとしては極めて小さな身体ながら世界にその名をとどろかせたウルティモ・ドラゴンが設立した「闘龍門」だった。石森は闘龍門の9期生として入門、メキシコに渡る。彼のキャリアはいきなり海外からスタートしたのだった。

2002年5月にメキシコでデビュー戦を行うと、翌年1月には東京ドームで開催された「ファンタジーファイトWRESTLE-1 II」にデビュー1年にも満たないうちに出場。闘龍門の先輩でもあるコンドッティ修司(現:近藤修司)から白星を挙げてみせる。この試合は関係者から高く評価され、石森太二の名は日本プロレス界に一気に知られるようになる。ちょうどデビュー1年後にはUWA世界ウェルター級王座を獲得し、瞬く間に闘龍門のトップ戦線に上り詰めた。

2004年に闘龍門から分裂するかたちでDRAGOM GATEで設立されたが、石森は闘龍門に残った。石森に寄せられた期待は大変なもので、闘龍門の後継団体ともいえるDragondoorやプロレスリングElDoradoのエースとして活躍した。この頃、石森はまだ20代前半。彼は若くしてエースの重圧にさらされることになった。資金的に苦しかった両団体から好待遇は得られず、石森はアルバイトをしながらプロレスを続けるような状態だった。そのような事情もあり、石森はプロレスリングElDoradoを退団し、フリーとして活動していくことになる。

 

フリーとなった石森は、2006年4月23日のノア武道館大会に参戦する。ここで石森にはいきなりのビッグチャンスが与えられる。当時KENTA(現:ヒデオ・イタミ)が保持していたGHCジュニアヘビー級王座への挑戦が実現したのだった。「プロレス界の無敵艦隊」との異名を持つほどの隆盛を誇った当時のノアでいきなりのシングル王座挑戦が認めらるほど、ノア関係者の石森への評価は高かった。惜しくも王座獲得はならなかったが、石森はこれ以降ノアに継続参戦することになる。

ノアへの参戦により経済的にも安定し、石森はプロレスに専念できるようになる。2008年からは正式にノア所属となった。ちなみに、09年に試合中の事故で急逝した三沢光晴が最後に入団させたのが他ならぬ石森だった。

08年3月にはKENTAとタッグを組み、当時DRAGOM GATEに流出していたGHCジュニアヘビー級タッグ王座を取り戻すことに成功する。かつての古巣から分裂した団体に乗り込み、アウェーな状況の中で獲ったベルトは、石森に大きな自信を与えてくれた。

ノアに所属していた石森だったが、プロレス以外の活動も積極的に行っていた。テレビ番組「SASUKE」に出演して巨大フィールドアスレチックに挑戦したり、ボディビルダーとして肉体を絞り込み、コンテストで準優勝したりもしている。レスラーとしてのキャリアを海外でスタートさせた石森には「団体のために全てを捧げる」といった思想はない。自由な時間があれば、それは自分のやりたいことに使う。それが石森の流儀だった。決してノアでの活動をおろそかにしているワケではなく、そんな石森をノアファンも支持した。端正な顔立ちとボディビルで鍛え上げた美しい肉体の持ち主である石森は、多くの女性ファンも獲得していった。

 

何度も挑戦しては手が届かなかったGHCジュニアヘビー級王座を2013年1月、ついに手中におさめる。石森は名実ともにノアジュニアの頂点に立った。GHCジュニア王座は原田大輔に敗れるまで10度の防衛に成功している。これは同王座の最多防衛記録であり、いまだに打ち破られていない。

2015年には新日本プロレスから鈴木みのる率いる「鈴木軍」が侵攻。当時のGHCジュニア王者は小峠篤司だったが、鈴木軍のタイチの前に敗北し、ベルトが鈴木軍に流出してしまう。初防衛戦の相手に選ばれた石森だったが、タイチのヒール殺法の前に敗北を喫する。しかし、タイチの5度目の防衛戦の相手に名乗りをあげ、タイチと戦前から激しく舌戦を繰り広げた。そして、レスラー生命を賭けたタイトルマッチで見事勝利をおさめ、ベルトをノアに取り戻してみせた。かつて自分を招き入れてくれた三沢光晴がいなくなったノアで、石森は三沢の恩に報いることが出来た。

その後もノア退団にいたるまで、常にジュニア戦線のトップで闘い続けた。ノアジュニアの象徴は間違いなく石森太二だった。端正なルックスとアクロバティックな動きはジュニア時代の丸藤正道の姿にも重なる部分があった。

 

ノアを去った石森は、海外での活動がメインになると思われた。それを匂わせる発言をしていたし、アメリカには退団前に石森が王座を戴冠していた「インパクト・レスリング」というノアと提携している団体もあった。そしてなにより、石森太二という男には、狭い日本から飛び出して世界で活躍してくれそうな自由でパワフルな雰囲気があった。

しかし2018年5月、石森は意外なところにその姿を現す。それは新日本プロレスのマットだった。IWGPジュニアヘビー級王者のウィル・オスプレイの試合後に突然リングに上がってきた新日のヒールユニット「BULLET CLUB」のメンバーであるタマ・トンガがかつて同ユニットに在籍していた覆面レスラー「BORN SOLDIER」の復活を宣言すると、骸骨のマスクを被った小柄ながらたくましい筋肉をまとった男がリングに現れた。その男は突然オスプレイに攻撃を見舞うと、オスプレイを半失神の状態に追い込んだ。そして、タマ・トンガの手によって男のマスクが取られると、そこには見慣れた石森の顔があった。両目の下には真っ黒なラインが引かれ、真っ黒なコスチュームと相まってかつての雰囲気を完全に消し切ってはいたが、間違いなく石森だった。彼はセビリアンブルーのマットを選んだのだった。

石森がBORN SOLDIERとして新日マットに登場したことを知ると、ノアファンの中には石森を非難する人も現れた。フリーとして海外で活躍するならまだしも、同じ日本の団体、それも最も勢いのある新日を選んだというのは、ファンにとって辛いものだった。「最初から新日に移籍するつもりだったのに、それをファンに隠していた」という声もあがった。ノア所属のレスラーである拳王は『週刊プロレス』の連載コラムの中で石森に対する不満を率直に綴っていた。僕もノアで石森太二というレスラーを観てきた人間として、石森がBORN SOLDIERになったことはやはりショックだった。海外での活動を匂わせていた石森が「新日本プロレス」という枠の中で完結してしまうのも残念だった。

しかし、僕もファンもノア所属のレスラーも、石森の人生に責任を取ることは出来ない。石森がどんなアクションを起こそうと、それを引き受けなければいけないのは石森自身だ。彼には自分の人生を生きる権利がある。それを他人がどうこう言うことは出来ない。そして、石森は十分すぎるほどノアに貢献してきたし、ファンに感動と興奮を与えてきた。所属レスラーが次々に退団して団体に元気がなかった頃、石森はGHCジュニア王者として次々に現れる強力なチャレンジャーからベルトを守り続けた。鈴木軍のタイチに奪われたベルトを取り戻してくれたのも石森だった。そのことを思い出すと、僕は絶対に石森を非難の目で見ることなど出来ないと思った。

 

いま思えば、石森は決してギャラや安定を目的に新日マットを選らんだワケではないと思う。石森の海外で活躍したいという想いにも、嘘偽りはないと考えている。単純に新日に移籍するだけなら、ノアと因縁の深い鈴木軍に加入する方が明らかにインパクトがある。タイチがヘビー級に転向したことで、鈴木軍はジュニアがひとり少なくなっている。石森が加入する条件は整っていたハズ。しかし、石森はBULLET CLUBを選んだ。なぜそのような選択をしたのか?それは、外国人ヒールが中心となっているBULLET CLUBが新日の海外進出の要だからではないか。BULLET CLUBの一員として活動していれば、おのずと海外の団体・ファン・メディアの目に触れる機会も多い。BULLET CLUBは海外志向のある日本人レスラーにとっては最高のユニットだといえる。

石森は決して頭の悪いレスラーではない。自分がノアを退団して新日のマットに上がれば、非難の声があがることぐらい十分に予想出来たハズだ。石森はそれを承知のうえでBULLET CLUBの一員となった。年齢的にはレスラーとしての成熟期に入っている。飛んだり跳ねたりするファイトスタイルも考えると、レスラーとして活躍できる時間は決して長くない。石森には遠回りをしている余裕などなかった。最短距離で世界まで駆け上がらねばならなかった。ファンから浴びる非難など、気にしているヒマはなかった。

そのような考えは「不義理」だとか「自分勝手」と言われる類のものかも知れない。しかし、石森にそのような日本的な言葉はあまりに似合わない。自由なメキシコの地でデビューした石森には、やはり自由でいて欲しい。周囲のことを気にして自分の人生の可能性を狭めてしまうなんて、石森にはいちばん似合わない。

 

石森は新日マットに劇的な参戦を果たした。直後に開催された新日のジュニアヘビー級のリーグ戦である「BEST OF THE SUPER Jr.」では、初戦でいきなりIWGPジュニアヘビー級王者であるウィル・オスプレイを撃破してみせた。その日のメインイベントとして行われたこの試合で、石森は一気に新日ジュニアのトップ戦線に食い込んだ。決勝戦で高橋ヒロムに敗北し、準優勝に終わってしまったが、新日への参戦によって石森の知名度は大いに高まった。

このBEST OF THE SUPER Jr.も中継した新日のネット配信サービス「新日本プロレスワールド」は海外にも多くのユーザーを持つ。新しく新日の社長に就任したのはオランダ出身のハロルド・ジョージ・メイ。新社長は海外市場の開拓を今まで以上に進めていくことを表明している。石森は最高のタイミングで新日に参戦したことになる。

 

石森はルビコン河を渡った。なにか壁にぶつかったとしても、古巣のノアに戻ってくることはもう出来ない。そして、僕は石森の挑戦が成功することを祈ることしか出来ない。

もしかしたら、外国の街の酒場のどこかで、熱心なプロレスファンが「タイジ・イシモリ」の名を口にしているかも知れない。手にしたスマートフォンでアクロバティックなファイトを目にし、驚嘆の声を上げているかも知れない。それなら、僕は自慢してみたい。あたながまだタイジ・イシモリの名を聞いたこともない頃から、僕は彼のプロレスを生で観ていたんだよと。

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