永田裕志 白目に秘められた苦闘のプロレス人生

全日本プロレスの「アジアタッグ王座」は日本プロレス界において最も長い歴史を有するベルトのひとつといっても過言ではない。なにしろ第3代の王者が力道山&豊登なのだから、その歴史の古さがうかがえる。現在のベルトの地位は、同団体の「世界タッグ王座」と比較するとやはり低く、若手レスラーの登竜門と評されることもある。

そんなアジアタッグ王座の現在のチャンピオンは、全日本プロレスの社長である秋山準と彼と盟友関係にある新日本プロレスの永田裕志。アジアタッグを他団体のレスラーが巻くこと自体は珍しくはないが、永田ほど実績と知名度のあるレスラーが戴冠することはあまりない。

かつてIWGPヘビー級のベルトを10度防衛し「ミスターIWGP」と呼ばれた彼は今、全日の若手レスラーの高い壁として王道マットで大きな存在感を示している。つい先日も、野村直矢・青柳優馬という全日のホープを相手に防衛戦を行い、見事にベルトを守ってみせた。ベルトを誇示しながら秋山とポーズを決めるリング上の永田は輝いていた。しかし、彼はその長いプロレス人生において数々の苦難を味わってきた‥。

 

永田裕志は千葉県東金市に生を受けた。父親は県立高校で校長と野球部の監督を兼務した人物であり、弟の永田勝彦はアマチュアレスリングでシドニー五輪の銀メダルを獲得し、のちに総合格闘技でも活躍した。正真正銘のスポーツ一家に生まれた永田もアマチュアレスリングにいそしみ、日本体育大学では全日本学生選手権優勝など輝かしい実績をおさめる。そして大学卒業後、新日本プロレスへ入団する。同世代には中西学や天山広吉がおり、非常にレベルの高い世代だった。後に永田と上記ふたりに小島聡を加え「第三世代」とくくられるようにもなった。

永田がレスラー人生で最初に注目されたのは、1995年10月9日に東京ドームで開催された伝説的な大会「激突!新本プロレス対UWFインターナショナル全面戦争」でのことだった。この大会の第1試合にエントリーされた永田は、石沢常光(のちのケンドー・カシンこと石澤常光)と組み、Uインターの金原弘光・桜庭和志と対戦した。第1試合とは思えぬレベルの高い攻防が続き、のちに「伝説の第1試合」とも呼ばれるこの試合では、石沢が三角絞めで桜庭から勝利を奪った。この試合に出場した4人全員がのちに総合格闘技のリングに上がるのだから、不思議な因縁を感じる。

 

UWFとの全面戦争から6年後の2001年は、永田にとって忘れがたい年となった。夏に行われたG1クライマックスでは決勝戦で武藤敬司を破り、初優勝を果たした。かつて自分が第1試合を務めた大会でメインを飾っていた男を大舞台で破ってみせたのだった。秋山準と団体の枠を超えたタッグを組み、こちらも話題となった。本来なら、この年は永田にとって最高の年になるハズだった。しかし、最後の最後にとんでもない悲劇が待ちかまえていた。1年の最後、大みそかに開催された総合格闘技イベント「INOKI BOM-BA-YE」へ永田は出場することになったのだった。

永田の対戦相手はクロアチア出身のK-1トップファイターであるミルコ・クロコップ。はじめて総合格闘技に挑戦する永田は、セコンドに自らと同じように日体大から新日に入団した後輩レスラーの高橋裕二郎をしたがえてリングにあがった。リングの下ではこの大会の指揮を執るアントニオ猪木が見つめていた。

試合開始のゴングが鳴らされるとすぐ、永田はミルコの脇を差そうと一気に間合いを詰めた。しかしミルコはそれをいなして距離をとる。アマレス出身の永田はグラウンドに持ち込みたかった。本格的なストライカーであるミルコ相手にスタンド勝負を挑むのはあまりにも無謀だった。ミルコは近づく永田をジャブでけん制する。そして、試合の幕切れはあまりにも呆気なかった。ミルコが放った左ハイキックが永田の側頭部を見事にとらえ、永田はロープ際にダウン。すかさずミルコが追撃のパンチを見舞っていくと、すぐにレフェリーが試合をストップした。わずか21秒で永田は敗北した。文句のつけようのない敗北だった。実況の古舘伊知郎は「永田、いいところなし!」と言い切ってしまった。永田はグラウンドに持ち込むどころではなかった。あまりにも試合時間が短かった。残ったのは「トップレスラーが総合のリングでキックボクサーに秒殺された」というプロレスファンにとっては残酷すぎる事実だけだった。永田は1年の最後に、それまでの全ての功績を台無しにするような挫折を味わったのだった。

この試合については多くの関係者が裏話を語っている。真相のほどはたしかではないが、総合初挑戦の永田は十分な準備期間をとれなかったというのは間違いないように思われる。当時トップレスラーとして活躍していたことを考えれば、総合のトレーニングに時間を割くというのは限りなく難しい。もしかしたら、永田はキックボクサーであるミルコを『グラウンドに持ち込めば簡単に勝てるだろう』と甘くみていたのかも知れない。たしかに、ステファン・ブリッツ・レコのように立ち技での実績があってもグラウンドに非常に弱く、総合で結果を出せない選手は多い。しかしミルコの体幹の強さは尋常ではなく、まずグラウンドに持っていくためにテイクダウンするのが非常に難しい。アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラやジョシュ・バーネットのような相手にも、ミルコはなかなかテイクダウンを許さなかった。

しかし、それらは全て後から明らかになったものであり、当時はそこまでの情報はなかった。永田はレスラーらしいリップサービスで「(自身の得意技であるナガタロック2にちなんで)ナガタロック3を試合で出すかも知れない」などと軽口をたたいたが、すべてが永田に対するバッシングとなって返ってきた。当時はまだプロレスと総合格闘技の垣根が低く、レスラーには総合のリングで結果を出すことが求められた。そして、永田はファンが望む結果とは真逆のものを出してしまった。

実をいうと、僕は昔からミルコ・クロコップが大好きで、永田との試合も何度も繰り返し観た。当時の僕は永田について全く知識を持ち合わせておらず「桜庭和志はプロレスラーだけどPRIDEで成果を出している。それなのに、この永田という人は何故こんなにダメなんだろう」とかなり否定的な目で見ていた。同じレスラーとはいえ、桜庭と永田の歩んできたキャリアの違いなど全く理解出来ていなかった。
総合で敗北したレスラーは他にもいるが、負けっぷりでいえばダントツで永田がひどかった印象がある。僕は全くプロレスが好きではなかったけれど、当時のプロレスファンがこの試合を観たら本当につらい気持ちになったと思う。

総合では悲惨な目にあった永田だが、プロレスのリングでは順調に出世を重ねていった。2002年4月には安田忠夫を破りIWGPヘビー級王座を獲得。ついに新日の頂点にまで上り詰めてみせた。このベルトは、翌2003年に高山善廣に奪われるまで10度の防衛に成功している。これは当時の最多連続防衛記録だった。プロレスリング・ノアのGHCヘビー級王座に挑戦したりと、永田の活躍は新日の外にも及んだ。プロレスラー永田裕志にとって、02年と03年は収穫の年だった。しかし、03年の大みそか、永田の姿はまたもや「INOKI BOM-BA-YE」のリングの上にあった。対戦相手はのちにPRIDEで絶対王者となるエメリヤーエンコ・ヒョードルだった。

 

永田にとっては2年前の悪夢を払しょくするチャンスだった。しかし、敗北すれば「ミルコ戦は運悪く序盤にキックをもらって倒れてしまっただけ」といった言い訳すら出来なくなる。極端な言い方をすれば、レスラーが総合で全く通用しないということを証明してしまうことになる。しかも永田はIWGP戴冠も果たし、プロレス界を代表するレスラーとなっていた。背負った責任はあまりにも重かった。

試合が始まると、永田はミルコ戦と同じようにヒョードルの脇を差しにいく。ヒョードルもこれに付き合うが、サンボをバックボーンとしているだけあって全く崩れない。距離が出来るとヒョードルの氷の拳が永田を襲う。永田は不用意にキックを放つが、カウンター気味にヒョードルのパンチをもらってしまう。しかし、これは決定的なダメージには至らず、永田はスリップ気味のダウンを喫しただけだった。ダウンした状態でヒョードルに脚をつかまれ、パンチを見舞われる永田。かつての悪夢が蘇るが、ここはなんとかしのいでみせる。そして再びスタンドの状態になると、すぐにヒョードルの拳が襲いかかる。たまらず組みにいく永田だが、やはりヒョードルは崩れない。そしてふたりの身体が離れた一瞬のスキにヒョードルの拳が永田をとらえ、永田はコーナーへダウンしてしまう。そこにキックとパンチの追撃が加えられるが、永田はうずくまったまま動けない。そして、レフェリーが試合を止めた。わずか1分20秒での決着だった。

プロレスラー永田裕志はふたたび大みそかに散った。この敗北は永田の評価を一気に引き下げた。ミスターIWGPがロシアの総合格闘家に惨敗を喫したというのは、プロレスファンにとってはあまりにも強烈な一撃だった。しかも永田には2年前の前科もある。永田は全てのプロレスファンを敵にまわしてしまった。

永田はなぜこのヒョードル戦を受けたのか?いくらミルコ戦での汚名をそそぐチャンスがめぐってきたとはいえ、相手があまりにも悪すぎた。

よく言われているのが、永田はアントニオ猪木に懇願されて緊急出場したという説。ヒョードルは別の選手と戦うハズだったが、その選手の参戦が流れてしまった。しかし、大会の目玉であるヒョードルの試合を組まないワケにはいかない。そこで、猪木は当時まだ自らの支配下にあった新日の永田に出場を打診したというストーリーである。永田にはミルコ戦の時よりも準備期間がなかったといわれる。間違いないのは、ヒョードル戦への出場が永田の意思ではなく、第三者の意思だったということ。永田の準備期間がほとんどなく、圧倒的に不利な状況だったということである。

この頃から、プロレスの人気低下が深刻化してくる。特に「最強」「ストロングスタイル」を売り文句にしていた新日は深刻だった。「本物の強さ」を求める観客はK-1やPRIDEに流出していった。もちろん永田のような新日レスラーが総合の試合で惨敗を喫したことも要因のひとつだった。永田は「プロレス人気低迷のA級戦犯」とまでいわれるようになった。いま考えてみると、そこまでの責任が永田にあったのかと言いたくなる。新興団体プロレスリング・ノアの隆盛、武藤敬司や橋本真也らの新日離脱。新日がこの時期に過去最大級の危機に陥ってしまった要因は、決して総合との絡みだけが原因ではなかったハズだ。しかし、新日のトップレスラーだった永田の総合2連敗という結果は、あまりにも「分かりやすい」原因だった。永田にとってつらい時期がしばらく続くことになる。

 

2006年頃から、永田のキャラクターに変化が見られるようになってくる。以前とは打って変わって、コミカルなキャラクターを演じるようになっていた。試合中に白目を剥く様子が注目され出したのもこの頃からである。

キャラクターこそ変化したものの、プロレスに対する真摯な姿勢が変わったわけではなく、団体の枠を超えた活躍も続いた。惜しくも敗れたものの、鈴木みのるの持つ全日の三冠ヘビー級王座に挑戦。2007年には「NEW JAPAN CUP」の決勝戦で当時勢いに乗っていた真壁刀義を破り、IWGP王者であった棚橋弘至に挑戦を表明した。そして行われたタイトルマッチで棚橋を破り、久しぶりのIWGP王者に返り咲いた。2008年にはゼロワンの田中将人を破り、同単体のフラグシップタイトルである世界ヘビー級王座を戴冠した。総合のリングで傷つけられた男は、プロレスのリングで復活しつつあった。

 

2010年頃から、新日では棚橋や中邑真輔ら新世代の台頭が本格的に進み、永田は新日のトップ戦線から少しずつ後退し始める。しかし、永田には自らの存在意義を十分に発揮する場所が他にもあった。それは、他団体のリングだった。

2011年の春には全日の「チャンピオン・カーニバル」に出場し、決勝では同団体所属の真田聖也を破って優勝を成し遂げた。同年のNEW JAPAN CUPで2度目の優勝を果たしていた永田は、新日・全日という両団体の春の祭典を制してみせたのだった。全日では三冠王者の諏訪魔に挑戦。敗れはしたものの、ミスターIWGPの三冠挑戦は大きな話題となった。

2013年の冬。永田は誰も成し遂げていない偉業を達成する。ノアの「グローバル・リーグ戦」に出場し、優勝。新日・全日・ノアというメジャー3団体すべてのリーグ戦で優勝したのだった。これは現時点でも永田しか成し遂げていない。

さらに翌14年初頭には通算4度目となるGHCヘビー級王座に挑戦。身長190センチを誇る巨漢レスラーの森嶋猛を破り、ついにGHCヘビー戴冠を果たした。この時すでに45歳。レスラーとしてのピークは過ぎていてもおかしくはなかった。しかし、リングの上の永田裕志は縦横無尽に暴れまわり、KENTA、杉浦貴といったベルト奪還に挑むノア戦士を次々に退けていった。丸藤正道にベルトを明け渡すまで、4度の防衛に成功した。

防衛に成功するたびに、新日のテーマ曲がノアの会場に鳴り響き、永田はふざけた様子で得意の「ナガダンス」を緑のマットで踊ってみせた。永田は、かつて自らが敗北したことで傷つけてしまった新日の看板をふたたび輝かせてみせたのだった。

 

現在、永田は新日のトップ戦線からは完全に退いている。第1試合でヤングライオンと試合をすることが多く、大会そのものにエントリーされないことも少なくない。イッテンヨン東京ドームでは、自らがレスラーとして最初に注目されることになった第1試合ではなく、バトルロイヤル方式で行われる第0試合への出場が続いている。

その一方で、冒頭で書いたように全日本プロレスでは秋山とアジアタッグ王座を戴冠し、若手の壁として立ちふさがっている。かつての経営危機が嘘のような完全復活を遂げた新日でトップに立てなくなったレスラーが層の薄い他団体でベルトを巻いていることを揶揄する声もある。しかし、永田はそんな雑音を気にするそぶりは見せない。先日のアジアタッグ選手権では、50歳という年齢もあり、さすがに動きは落ちていたものの、白目を剥きながら若きチャレンジャーの腕を極めている姿はかつてと全く変わらなかった。いまの永田は、誰がなんと言おうと輝いて見える。

永田のプロレス人生は、恥の多い人生だったと思う。総合のリングでは惨めな敗北を喫し、勝利をつかむことはついに出来なかった。プロレスラーとして一時代を築きはしたものの、台頭する世代の踏み台になってしまった印象も強い。

しかし、永田はまだプロレスを続けている。今までに潔く引退する機会は何度もあった。引退が頭をよぎることもあったと思う。そこで踏みとどまることが必ずしも正解だとは限らない。潔さを好む日本人からは、むしろその方が称賛されるかも知れない。永田ほどの知名度があれば、レスラーを引退しても生活には困らないだろう。多大な貢献をしてきた新日で指導者になるなり、タレントになるなりしてもいい。だが、永田は現役にこだわっている。

完全に僕の推測になってしまうのだけど、永田はまだプロレスを「楽しみたい」のではないだろうか。レスラーとして最も脂が乗っていた時期に、総合格闘技で手痛い失敗をしてしまった。業界的にも最も元気のない時期だった。永田の全盛期は新日の暗黒時代と重なる。『ダメだ。俺はまだやり足りない。もっとプロレスを楽しみたい』先日のアジアタッグ戦を観戦していると、永田のそんな声が聞こえてくるようだった。

永田の白目の裏には、レスラーとして絶対に味わいたくないような苦しみが秘められている。ミルコやヒョードルに惨敗を喫したこと、自らがベルトを巻いているときに観客が集まらなかったこと、棚橋や中邑といった新世代の前に埋没してしまったこと‥。
しかし、プロレスラー永田裕志はそんな苦しみを表には出さない。永田は今日も大勢の観客の前で白目を剥き、暖かな拍手と笑いを贈られている。永田はいま、思い切りプロレスを楽しんでいる。

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